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日本における歴史

日本における奇術の歴史は、奈良時代に唐より仏教とともに伝来した「散楽」が始まりとされ、狂言や能などと同じ源流を持っている。

大道芸として発展し、「放下」「呪術」「幻術」と呼ばれたが、戦国時代には芸として完成している。ただし、室町時代以降はキリシタン・バテレンの妖術と非難され、一時禁止された。陰陽師(安部晴明など)の術も奇術の原理を使用していたとされる。戦国時代の果心居士などが有名。

江戸時代頃から手妻(てづま)、 人妻品玉と呼ばれ、柳川一蝶斎や塩屋長次郎らが舞台で活躍した。特に塩屋長次郎は世界に先駆けて「ブラック・アート」(イリュージョンを参照)を完成させた人物である]。この時代に完成した日本奇術(和妻)の中でも水芸や胡蝶の舞、ヒョコといった演目は傑作となっている。江戸時代以降は奇術解説書が多く 同人誌 出版されるようになり、日本最古のものは「神仙戯術」(元禄10年、1697年)であり、これは明の文人画の大家、陳眉公の翻訳である。江戸時代、奇術は知的な座敷芸として認知されていた。趣味人や知識人が著し、当時のプロが演じていた大掛かりなものから、座敷で演じるものまでが解説され、当時の日本人は既にエンターテイメントとして奇術を楽しんでいたことがわかる。江戸時代の著名な奇術解説書としては、「座敷芸比翼品玉」「秘事百撰」など。幕末から明治維新に掛けて来日した外国人は、手妻(特に胡蝶の舞)に驚嘆したという記録が残っている。

この時代には歌舞伎や人形浄瑠璃、からくり人形の舞台も大変な人気で、奇術的な原理を使用するものも多く、密接な関係を保っていた。

明治時代に、ヨーロッパ巡業した松旭斎天一やその一門などを始めとした数多くの奇術師が「西洋奇術」を披露し、人気を博した。このために、世界的に見てもユニークな手妻は徐々に勢いを無くし、現在では限られた奇術師(手妻師)しか演じなくなっている。現在の日本で見られる奇術のほとんどは欧米で発達したものであるため、日本古来の手妻(てづま)、品玉(しなだま)を指す場合に、特に西洋奇術の洋妻(ようづま)に対し和妻(わづま)という呼び方がされることもある。

1900年代初期から、日本奇術界は欧米のコピーに傾倒し始める。海外の知識が日本に流入するようになってから、奇術は手妻以上に演芸として確立する。

戦前は、松旭斎天一の弟子「魔術の女王」松旭斎天勝など松旭斎一門や様々な流派、または師弟関係の無い独学のマジシャンが興行を成功させた。また、アマチュアの研究家だった坂本種芳などが活躍し、同氏は1935年に海外の著名な賞であるスフィンクス賞を受けるなどしている。この時期に、様々な同好会が設立された。奇術のスタイルとしては、ステージマジックが主流であった。しかし、第二次世界大戦が長引くにつれ情報は乏しくなって行く。

戦後になると、小野坂東や高木重朗の尽力で欧米の奇術が再び日本へ紹介され、大きな影響を与えた。この頃は、クロースアップ・マジックに関連する情報が多く、この分野が急激に発展した。また、プロマジシャン以外にも、アマチュアながらも優秀な愛好家が増加。沢浩や厚川昌男といったアマチュアマジシャンが世界を驚嘆させる奇術を創案し、その他多くの優秀な人材が生まれている。

現在では日本の奇術愛好家人口も増加し、全国各地に同好会が存在する。世界の舞台で活躍するマジシャンも多く、「マジック界のオリンピック」の異名を持つ世界大会「FISM」などへ入賞するケースが増えている。世界で活躍したマジシャンとしては、石田天海や島田晴夫、峯村健二ら。1970年代に初代・引田天功などがステージマジックで成功し、1990年代には超魔術ブーム、2000年代にはクロースアップ・マジックがブームを巻き起こした。

 

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