日本以外の国での歴史
奇術の歴史は古く、演目の1つ「カップ・アンド・ボール Cup and Ball」は古代エジプトのベニハッサン村の4000年以上前のものと推測されている洞窟壁画にそれらしきものが描かれている(ただし、これはカップ・アンド・ボールを演じているところではないと考える学者もいる)。紀元前1700年頃のものと考えられている書物(ウェストカー・パピルス)には当時童貞 のファラオの前で演じた奇術師の様子が詳細に描かれている。ギリシア・ローマ時代には奇術師を「小石を使うもの」という意味の言葉calculariusや「カップを使うもの」という意味の言葉acetabulariiで呼び、これは「カップとボール」(ラテン語acetabula et calculi)を表している。この時代の文書には、奇術師に関連する逸話や見聞録が数多く存在する。
魔術と奇術は、ある意味では逆援助 非常に近しい関係にある。英語のmagicがその両方を指すように、そもそも奇術は魔術を実現するために発展してきたとも考えられる。
奇術は古代、国家形成以前の時代から行われていたとされ、これは古代の集団においてそれを統率するリーダー的役割の人間は、不思議な力があることが大きな影響力を持っていた(日本では卑弥呼など)ことに由来する。リーダーは、民衆とは違ったことができるということをアピールすることで権力を得たともいわれるからである。このような奇術を「原始奇術」、「ビザー・マジック」とも言い、古代社会では大きな影響力を持つことに成功したと見られる。
ヒエロニムス・ボス『手品師』(『いかさま師』とも。1475-1480年頃)。古典奇術「カップと玉」に目を奪われた客の財布を、左端の男が狙っている中世から近世にかけて西ヨーロッパにおいて、奇術を演じる者は「悪魔と契約を結んで本当に邪な力を得たのではないか」との嫌疑をかけられることがあり、一部の奇術師たちは訴えられて処罰された。近世に入って魔女狩りが盛んに行われるとヨーロッパでは奇術の技術的発展もストップした。この時代、旅回りのジプシー(ロマ)や芸人、一部の「白魔術」を行う奇術師によってのみ演技は継承されていた。 1584年にイギリスの私淑者レジナルド・スコットが、魔女狩りから無実の人々を救う目的で『妖術の開示』をロンドンで出版。この中には奇術の解説も含まれており、世界最古の奇術解説書となっている(その他の有名な初期の解説書といえば「ホーカス・ポーカス・ジュニア」など)。